創業前史
当社生誕の地とも言える長崎県松島における石炭採掘の歴史は1781(天明元)年にまで遡ることができ、時津村(現・長崎県西彼杵郡時津町)の住人萬右衛門によって始められたと言われている。江戸期には、島内外の人によって断続的に採炭が行われ、付近の塩田や瀬戸内海の塩田に供給されていた。
明治の半ばになると、産業革命の担い手として石炭産業が急速に発達し、炭鉱各社は九州にも新しい鉱区を求めるようになった。1905(明治38)年、古賀鉱業合資会社によって本格的に松島炭田の開発が進められた。古賀鉱業(合)は、05年に松島・内ノ浦で第一坑を開坑し、続けて10年に第二坑、1912(大正元)年に第三坑を開坑した。
松島炭は炭質が優れており、12年ごろには年間生産が約36万tにまでなっていた。
松島第四坑立坑全景
大島坑の掘進
1934(昭和9)年11月の第四坑の水災により、当社は松島坑での採掘を断念し、新天地を大島に求めた。大島は、長崎県西彼杵半島の西方約2kmの海上に位置する小島で、西彼炭田の最北端に当たる。当社と三井鉱山(株)が共同して1917(大正6)年に大島炭鉱株式会社を設立していたが、断層や出水のために開坑は困難を極め、それに加えて20年に経済恐慌が起こったために開坑作業は全く中断されていた。
1935(昭和10)年3月、当社は大島開坑を決定し、三井鉱山(株)の持分を買収して5月より第一坑の開削に着手した。当初は断層に妨げられて出炭計画を大きく下回り、経費だけが膨れ上がる中で、一時は閉山の危機に瀕した。現地幹部が責任をとって交代するまでに至ったが、38年2月末に良質な炭層が発見され、大島は危機を逃れた。態勢を整えて増産に備えるために38年4月19日、大島鉱業所を設置した。だが困難は続き、同年6月12日には第一坑でガス爆発事故が起こり、16名の命が失われた。
その後も大島では坑内のガスに悩まされることになった。
大島第一坑開坑時坑口付近
長期計画の策定と資本の増強
第3次合理化が進むにつれて当社の経営は順調に推移し、1962(昭和37)年2月1日、東京証券取引所第一部に株式を上場、さらに同年4月2日には福岡証券取引所に上場を果たした。池島坑の開発も軌道に乗ってきたことから、62年4月1日をもって、池島坑を大島鉱業所から独立させ、池島鉱業所として発足した。さらに67年度年産72万t体制を目指し、62年度からの長期計画を立てて飛躍的発展を図っていった。
1964年4月、池島では深部化・広域化対策として立杭開削に着手した。また、坑内では水圧鉄柱の導入、坑外では選炭設備の改善などを行い、出炭増加を図っていった。
この長期計画の実施に先立って、62年6月、池島-福島間に66kVの海底ケーブルを布設し、変電設備を強化した。当時としては世界的な試みであり、これにより供給電力量は従来の3倍となった。1962年10月1日、資本金を13億6,500万円に増資した。63年には大阪証券取引所第一部に上場、さらに64年には資本金を22億円に増資するなど、資本の増強も併せて行われた。
サンピングドラム使用開始
「三井松島株式会社」発足
1980年代前半、わが国では経済成長が安定して進み輸出が増加、ドル高・円安傾向もあって経常収支黒字が拡大した。発電用燃料・産業用燃料においては、二度の石油危機で原油価格が高騰したことから、80年代に価格競争力があり、安定して調達できる石炭への回帰、または天然ガスへの切り替えが進んだ。
1985(昭和60)年、プラザ合意により急速に円高が進行した。日本銀行は円高不況を回避するため低金利政策を実施したが、不動産や株式への投機を招き地価・株価が高騰、80年代後半にはバブル景気が発生した。石油危機以降国内の石炭需要は増加に転じて海外炭の輸入が著しく増加したが、円高により海外炭が安く輸入され、内外炭の価格差が拡大した。
1983年、当社は三井鉱山建材販売(株)を合併し、三井松島産業(株)として新たに発足した。総合商社を目指して経営の多角化を進めていくとともに、かねてより行っていた海外炭の開発輸入活動を本格的に進めていった。一方、池島炭鉱では、設備の増強により85年度に年産最高の153万tの出炭を記録したが、87年に第8次石炭政策がスタートし、縮小均衡路線を歩むことになった。
三井松島産業(株)本社大手門パインビル
海外石炭開発への模索
1980年代後半から90年代初頭にかけて続いたバブル経済が崩壊、日本経済は低成長時代を迎えた。資産価値が長期にわたって下落し、バブル期に膨れ上がった不動産関連業、建設業、流通業、ノンバンクなどへの融資が焦げ付いて不良債権が拡大、民間設備投資も抑制された。1993(平成5)年10月を底に景気は回復するが、97年には消費税率の引き上げや金融機関の経営破綻が続き、景気が急速に悪化した。
鉄鋼業界による国内炭の引取協力が1990年に終了し、92年には炭鉱および関連会社の構造調整と経営多角化を骨子としたポスト8次石炭政策がスタートした。
当社でも1996年に光コンポーネント事業に進出するなど、経営の多角化を一層推進していった。
また、長年培った世界屈指の炭鉱開発技術を基に、海外炭鉱の開発・運営を積極的に推進、海外へ進出していった。1990年、海外法人第一号として三井松島オーストラリア社を設立、海外拠点を確立するとともに、91年にはオーストラリア・リデル炭鉱に資本参加し、対日販売権を取得した。
三井松島オーストラリア社
経営合理化
バブル崩壊後長期不況が続き、1990年代から2000年代初頭までの経済は「失われた10年」(平成不況)と呼ばれた。特に1999(平成11)年には消費者物価がマイナスになり、その後4年にわたって消費者物価が下落しデフレが長期化した。また、コーポレート・ガバナンスやメインバンク制の諸問題が浮上するなど、企業にとっては厳しい情勢が続いた。
石炭鉱業審議会においては、1999年8月に2002年度以降の国内石炭鉱業のあり方について答申が出された。この答申を受け、全9次約40年にわたる国内石炭政策は、02年3月末をもって終了することとなった。池島炭鉱では00年に坑内火災が発生し、01年11月、ついに閉山を余儀なくされた。石炭政策の終了とほぼ時を同じくして、当社は国内炭鉱事業から撤退、松島炭鉱創業時から88年(池島炭鉱42年)の歴史を閉じることになった。
閉山した池島炭鉱全景
リデル炭鉱JV増産体制の確立
21世紀初頭の日本経済は長期不況が続いていたが、2003(平成15)年頃からようやく景気が回復基調に転じ、企業は業績が改善した。また、世界人口の増加と新興国の経済発展により世界のエネルギー消費は増加した。特に中国・インドなどにおいては、電力供給とインフラの整備が大きな課題となっており、石炭の需要も大きく伸びていった。
当社は海外炭の開発・輸入販売に特化し、2002年には三井松島インターナショナル社(MMI)を設立した。MMインターナショナル構想に基づき、MMIとの連携、海外企業との提携をベースとして、海外に事業の舞台を移し、01年にはインドネシア・ABK炭鉱と技術援助の見返りに対日独占販売権を獲得、04年にはインドネシア・セパリ炭鉱へ資本参加を行うなど、炭鉱権益の開拓に力を注いでいった。
一方では、経営資源の選択と集中を進め、2006年、経営の3本柱の一つとなっていた光コンポーネント事業より撤退した。光コンポーネント事業の売却資金はじん肺訴訟の和解金に充当、それとともに当社の財務状況が大幅に改善されることになった。
以降は、長年にわたって蓄積してきた石炭事業を中心とする資源・エネルギー部門に経営資源をさらに集中し、海外での石炭開発輸入を一層積極的に進めていった。
リデル炭鉱新選炭工場
次の100年に向けて
2000年代後半、サブプライムローン問題をきっかけとする世界同時不況により景気が急激に悪化、日本のGDPはマイナス成長となった。2008(平成20)年には世界金融危機(リーマン・ショック)が発生、1990年代と2000年代以降の経済を合わせて「失われた20年」と呼ばれるようになった。さらに10年に顕在化したギリシャ危機により、ユーロ圏だけでなく世界全体の株価が下落した。ドルやユーロの価値が下がり、円は1ドル=70円台にまで上昇、輸出品の競争力低下や企業の海外流出が進んだ。
2011年3月、東日本大震災が発生、福島第一原子力発電所事故やそれによる電力供給量の減少が響いて、経済は急激に落ち込んだ。石炭を含む化石燃料エネルギーの今後の位置付けが注目され、クリーンコールテクノロジーは再び極めて重要な役割を担うことになった。
当社は、2007年に池島アーバンマイン(株)を設立し、環境事業に進出していった。13年には創業100周年を迎え、これまで培った炭鉱経営のノウハウや高度な技術を活かして今後とも石炭の安定供給に取り組むとともに、「人と社会の役に立つ」との当社グループの経営の基本理念に沿って、より豊かな活気ある社会づくりに向けて事業を展開している。
リデル湖
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